福岡地方裁判所小倉支部 昭和31年(ワ)377号 判決 1960年9月29日
原告 山崎次敏 外一三名
被告 三菱化成工業株式会社
主文
原告等の請求を棄却する。
訴訟費用は原告等の負担とする。
事実
原告等訴訟代理人は「被告は原告等が被告会社の従業員たる地位を有することを確認する。訴訟費用は被告の負担とする」旨の判決を求め、その請求の原因として、
一、被告は本店を東京に置き染料、薬品、肥料等の各種化学工業品の製造加工並に販売及びこれ等に附帯する事業を営む会社で、八幡市黒崎に工場を有する企業体である。原告等は何れも被告三菱化成工業株式会社の前身たる日本化成工業株式会社(以下同会社をも合せて被告会社と称する)黒崎工場の従業員であつたが昭和二十五年十月十三日解雇された。
二、右解雇はいわゆるレツド・パージによるものであつて、昭和二十五年十月五日午後四時頃突如として、被告会社黒崎工場勤労課の労働組合役員に来てくれとの通知があり、組合執行委員六名が出かけると「会社に非協力的な者として二十七名を解雇する」といつて氏名を示し、解雇申入をした。その二十七名の中に原告等は含まれていた。組合幹部が解雇理由を質すと「共産党員及びその同調者である」との答えであつた。被告はその日退勤時を狙つて全従業員に社長告示なるビラを配つて「共産党員及びその同調者を非協力者として追放する」趣旨を周知せしめる挙に出でた。尚被告会社は二十七名の者に対して即日工場内立入禁止の通知をした。次で昭和二十五年十月十一日、同月十三日付を以て解雇するとの通知を発し、右十三日を以て原告等全員を解雇した。
三、然し乍ら、右解雇は当時占領軍司令官マツカーサーから出された赤追放の書簡に便乗してなされたいわゆるレツト・パージであつて無効である。即ち、憲法第十四条第一項、労働基準法第三条は信条による差別待遇を禁止しており、この信条とは宗教的なもののみならず、政治的意見、信念をも含むものであるところ、本件解雇は昭和二十五年五月三日より同年七月十八日に至る間のマツカーサーから当時の吉田首相宛に出された一連の声明及び書簡の趣旨と、当時の国際及び国内的情勢に便乗してなされたものであつて、原告等が共産党員又はその同調者であつて、そのことによつていずれも解雇されたものであるから、右解雇は前記憲法第十四条第一項、労働基準法第三条に違反し、従つて民法第九十条の公序良俗に違反したものとして無効なものである。
四、右主張が理由ないとしても、原告等はいずれも熱心な組合活動者であつた。即ち、原告山崎次敏は当時被告会社黒崎工場労働組合組合長原告阿部忍はその元青年部文化体育部長、元中央委員、原告高田喜智はその元職場委員、原告山本国彦はその元中央委員、原告山本安夫はその元中央委員、原告清原正人は当時その青年部支部長、原告坂井弘はその元中央委員、執行委員、青年部長、原告上原逸夫は当時その区会委員、原告松井正雄は当時その中央委員、原告杉村幸保はその青年部長、当時教宣副部長、原告小柳利治はその元青年部中央幹事、区会委員、原告山本正昭は当時その中央委員、原告古賀俊彦はその元中央委員、元青年部中央幹事、元労働副部長、原告楠田行雄はその元中央委員、元執行委員であつた。被告会社が原告等に対して示した解雇理由には具体的には何も示めさないで、被告の本件解雇はいわゆるレツド・パージに名を藉り組合活動に最も熱心な者を排除し、組合を弱体化する目的で原告等に不利益な取扱をした不当労働行為というべく、このことは憲法第二十八条、労働組合法第七条に違反したものであつて、従つてかかる行為は公序良俗に違反し民法第九十条により無効である。
五、原告等は上述の通りレツド・パージにより解雇されたものであるが、原告等が当時所属していた労働組合と被告会社との間の労働協約によれば、組合員の解雇については協議約款が規定されていた。即ち右労働協約第七十条によれば「会社は、組合員の解雇に関しては、事前に単位組合に文書で通告するものとし、通告後五日以内に単位組合から異議の申立があつたときは、単位組合と協議する。」とあり、又右協議の意義につき、協議が成立することを要するか又は充分協議すれば足りるかについては、右労働協約の附属協定で、第七十条「経営内的原因によるものは原則通りということになり、経営外的原因によるものは例外ということになる。」とされており、本件解雇は右にいう経営内的解雇に当ることは明らかであるから、被告会社は労働組合と充分協議するのみでは足らず、解雇理由を検討の結果、組合も亦その理由を相当であるとして労使間に決定を見たとき始めて協約第七十条による協議の義務が尽されたことになるものであるところ、本件解雇については、昭和二十五年十月五日より同年十月十日までの間四回に亘り組合と協議の機会が持たれたが、被告会社は何等具体的解雇基準を示めすことをせず、始めから組合の意見はただ聞くだけで組合から異議があつたからといつて会社が本件解雇を取消すことはないとの態度であつて、かかる協議が協約第七十条に従つた協議といえないことはいうまでもない。よつて右協約に従つた協議乃至協議の成立なくして原告等は解雇されたものであるから、本件解雇は協約違反のものとして無効である。
六、仮りに協約に基く協議義務が尽されたとしても、右協議は同年十月六日開かれた組合の中央委員会の決定に基き為されたものであるが、この中央委員会の決定、右に基く組合交渉委員との協議はその後十月十四日の組合大会において否決されたので右協認は遡及してその効力を失つたものである。蓋し組合規約によれば大会が最高決議機関で中央委員会は次級決議機関であるからである。右によるも本件解雇については労働協約に基づく協議がなかつたものであるから無効なものというべきである。
七、本件解雇に当つては、単に「非協力者」として解雇すると通告し、具体的な解雇基準なるものは何等示めされていない。唯「共産主義者及びその同調者として企業破壊のおそれがある」とのみ説明された。凡そ解雇には正当な理由がなければならない。その理由は具体的でなければならない。レツド・パージによる解雇が相当であるか否かはかかつて追放された者がどのような具体的企業破壊の活動をしたか否かの事実認定によつて決せられるべきである。然るに単なる前記の如き抽象的理由によつて解雇した本件の場合は、解雇基準に該当する具体的行為も示めされていず、又原告等には解雇基準に該当する具体的行為も事実存在しないのであるから、解雇権の濫用であり、民法第一条第二、三項に違反し、従つて同法第九十条により無効である。
予備的主張として、
八、仮りに原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名が解雇ではなくして雇傭契約の合意解約であるとしても、右はレツド・パージにより馘首されんとしている原告等の窮迫状態につけ入つて、普通の解雇の場合に支給される以上の金員を会社から贈与することを餌として、希望退職即ち合意解約の形式を整えたに過ぎないものであつて、かかる法律行為は相手の窮迫状態を利用したもので、民法第九十条により公序良俗に違反するものとして無効である。
九、右が理由がないとしても、右原告等五名は被告会社の解雇は無効と信じていたものであつて、そうであるとすればいくら無効な解雇通知を受けていても規定の給料を貰う権利は尚且つ有しているものである。然るに会社は一方的に解雇の有効なことを主張して給料の支給を打切つてしまつた。そこで仕方なく会社の支給するという退職金を受取る方便として退職届を出したまでである。退職金の受領も対等者間においてなら、解雇を争う権利を抛棄したと見られるかも知れない。然しながら、本件の場合は既に対等者間の交渉ではなく、失業者として社会に放り出されんとする原告等には死の自由が残されているだけである。そこで原告等は当面の生活費として当然貰う権利があると信じている給料の代りとして、退職諸手当を受取つたまでであり、このことを目して合意解約の真実の意思表示があつたものと見ることは出来ない。而して被告会社においても労働者が退職願を出し、退職金を受取ることが解雇を争う権利を抛棄するものではないことは当然知つており、又少くとも知り得た筈である。よつて右は原告等五名の前記真意を知り又は知り得べかりし場合に当るので、本件五名の希望退職による合意解約の意思表示は無効である。
十、右が理由がないとしても、右原告等五名の合意解約は、使用者が、労働組合から弧立し、経済的に窮迫しつつある従業員の窮状につけ込んで強迫的手段を以つて、退職金の受領を強要するため、被解雇者は自己に対する解雇が憲法や労働組合法に違反していることを知りつゝも使用者の強腰に押されて解約に同意する旨の意思表示をしたものであつて、右合意解約は公序良俗に違反した法律行為であつて無効である。
以上の理由によつて本件各解雇又は合意解約(予備的主張)は無効であるから、原告等は依然として被告会社の従業員たる地位を保有しているにも拘らず、被告はこれを否認して原告等の就労を拒否するので右各雇傭契約が現に存続しているとの確認を求めるため本訴に及んだと述べ、
被告主張の一の事実に対し、原告清原正人が昭和二十五年十二月五日被告会社に対し被告主張の如き本件解雇に関し異議権を抛棄する旨の意思表示をしたこと、又原告山本国彦の代理人訴外田中忍、原告坂井弘の代理人訴外坂井秀子が被告主張の如き供託中の退職金及び解雇予告手当を受領する代理権があつたことは認めるがその余の事実は否認する。尤も原告等は昭和三十一年十二月一日午前十時の本件口頭弁論期日において原告山崎次敏、同山本国彦、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同小柳利治、同山本正昭の七名が被告会社から福岡法務局折尾出張所に供託してある退職金、解雇予告手当受領のため、会社保管中の供託書を受取りに来社して供託書を受領した事実を認めたが、右自白は何れも真実に反し且つ錯誤に基づくものであるからこれを取消すと述べ、
被告抗弁に対する再抗弁として、
(一) 原告清原正人は、昭和二十五年十二月五日被告会社に対し解雇に対する一切の法律上の請求権を抛棄する旨意思表示をしたとしても、右は会社から「これを書かねば金を貰えない」といわれて右趣旨を記載した念証に署名捺印したものであつて、同原告は職を追われ食べるに困つていたので一時借用して、復職斗争に勝つて返済するという意思で右書面に印を押し、即日会社から金を受取つたものである。而して被告会社は同原告の右異議権抛棄の意思表示が同原告の真意でないことを十分知つているばかりでなく、かくの如く「捺印せよ、然らずんは餓死せよ」といわんばかりの困憊の状態で意思表示を迫つたのであるから公序良俗にも反する行為である。よつて同原告の前記異議権抛棄の意思表示は民法第九十条並に同法第九十三条により無効である。
(二) 原告杉村幸保についても同原告が解雇に関する供託金を受領したからといつて同原告が解雇に不服であることは被告会社の十分知つていたところであるから、同原告において仮りに被告主張の如く何らかの解雇に関する異議権抛棄の意思表示があつたとしても、右は民法第九十三条により無効である。
(三) 被告主張の如く原告山本国彦の代理人田中忍、原告小柳利治の代理人小柳勤、原告山本正昭の代理人松井保典において解雇に対する法律上の一切の請求権を抛棄する旨の意思表示があつたとしても、右は同代理人等の真意に出づるものではないことを被告会社は十分知つていたのであるから民法第九十三条によりいずれも右意思表示は無効である。
(四) 原告坂井弘の代理人坂井秀子が前記の如き異議権抛棄の意思表示をした昭和二十六年九月二十九日当時は同訴外人は未成年者であつたので、同原告において右坂井秀子に対しかかる意思表示の代理権授与があつたとしても、右委任行為自体が同原告における瑕疵ある意思表示となるから、同原告は昭和三十五年六月七日付準備書面を以て右委任行為取消の意思表示をした。よつて右坂井秀子の右異議権抛棄の代理行為は無効となつたものである。
(五) 又、仮りに被告主張の如く原告山崎次敏、同山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同杉村幸保、同小柳利治、同山本正昭において解雇に対する一切の法律上の請求権を抛棄する旨の意思表示がなされたとしても、右は先に原告等予備的主張の八及び十において原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名において述べたと全く同一の状態、方法において右原告山崎次敏外八名の者において右異議権抛棄の意思表示をしたものであるから、解雇された右九名の原告等に対しても右意思表示は公序良俗に違反するものとして民法第九十条により無効である。
と述べた。
被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、原告等主張事実に対し、
一の事実中、被告が本社を東京に置き、原告主張の如き事業を営む会社で黒崎に工場を有すること、及び原告等が何れも被告の前身日本化成工業株式会社黒崎工場の従業員であつたこと、及び原告等のうち原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名を除くその余の原告等が昭和二十五年十月十三日解雇されたことは認めるが、右挙示の原告等五名を解雇したとの事実は否認する。右原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名は、何れも昭和二十五年十月十三日自ら退職願を提出し、被告会社との間の雇傭契約を合意により終了せしめたもので、原告主張の如く解雇ではない。
二、三の事実は全部否認する。被告会社は昭和二十五年十月五日組合に対し、更に同年十月十一日原告等に対し整理通告をなしたが、原告等は破壊的煽動的言動のある共部党員又は同調者であつたので、被告会社は企業防衛上止むを得ず整理の方針を決定し、整理通告をなしたもので思想、信条を理由とした整理通告ではなく、従つて原告山崎次敏、同山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同杉村幸保、同小柳利治、同山本正昭に対する解雇は原告等のいうレツド・パージにより解雇したものでもなく、又マツカーサー書簡に便乗してなされたものでもない。
四の事実中、原告高田喜智が元職場委員であつたこと、原告清原正人が当時青年部支部長であつたこと、原告坂井弘が元中央委員であつたこと、原告小柳利治が区会委員であつたことはいずれも知らない。右の点を除いて原告等(但し原告高田を除く)が各々原告主張の如き組合役員であつたことは認めるが、その余の主張事実は否認する。
五の事実中、原告等主張の労働協約第七十条、及び右労働協約の附属協定で原告等主張の如き条項並びに解釈規程があること、本件整理につき、昭和三十五年十月五日より同年十月十日までの間四回に亘り組合と協議したことは認めるがその余の事実は否認する。
組合員を解雇する場合の解雇基準は、労働協約第六十九条に定められており、本件整理は同条第五号の「その他事業上の都合によるとき」の解雇に該当する。而して第六十九条各号によつて解雇する場合の手続は協約第七十条によつて「会社は、組合員の解雇に関しては、事前に単位組合に文書で通告するものとし、通告後五日以内に単位組合から異議の申立があつたときは、単位組合と協議する」旨規定されている。ところで協約第七十条註によると「解雇について異議あるときは、特に充分協議のこととし、事業整理による解雇については、協議成立の上実施することを原則とする。」と定められていて、解雇の場合でも事業整理以外の解雇の場合は協議成立を必要とせず、充分協議すれば実施出来るものである。而して本件整理は被整理者等の言動を理由にして会社が企業防衛上やむなく行つた整理であるから「事業整理による解雇」に該当しないことは明らかである。而して原告等の援用する正式記録第七十条「経営内的原因によるものは、原則通りということになり、経営外的原因によるものは例外ということになる。」との規定は右第七十条註後段の「事業整理による解雇」に関して規定したものであつて本件整理の如く事業整理による解雇に該当しない場合においては右規定の適用はないものである。
而して被告会社は本件整理に当り、昭和二十五年十月五日組合に対し人事問題で協議したい旨申入れ、執行部員全員の出席を要請して協議に入り、又組合が、十月六日の中央委員会において峰副組合長以下の執行委員の外に中央委員四名を協議に参加させることを決定、これを会社に申入れたのに対し、会社は快くこれを認め、結局十月五日以降十月十日まで四回に亘り副組合長峰真澄以下の組合代表と充分協議を尽したのであるから、被告会社としては、本件整理に関する協議を協約に則つて行つているので、本件協議の効力について、協約上疑義を生ずる余地はない。
六の事実は否認する。凡そ人事に関する会社と組合との協議については、組合は、執行部又はその少数者がこれに当る権限を持つているものであつて、その協議の効力発生のために議決議関の決議を必要とするものではない。本件の場合も、組合は執行委員において交渉をなし得るのであるが、特に慎重を期して中央委員会に諮り、且つ中央委員からも協議委員を選出して協議をなしたものである。而して右に述べた如く本件整理そのものは協約上の問題で本来執行部の処理事項であるから、これについては必ずしも事前に大会に附議する必要はもとよりないものであり、さればこそ十月十四日の大会においては本件整理そのものについてはこれを議題として掲上されず、唯その経過が報告されたに過ぎないものである。而して原告主張の如く十月十四日の大会で中央委員会の十月六日の決定並に右に基く組合交渉委員と被告会社との協議が否決された事実はない。唯「中央委員会の執つた態度は認めない」との第三の決定はあつたが、右は原告主張の如き趣旨の決議ではなく、唯単に中央委員会に対する不信任の議決に止まるものであつたのである。又仮りに大会で「調印の効力は無効である」旨決定されても、それにより会社と組合の代表との調印が無効になるものではない。
七の事実は否認する。原告等のうち合意により雇傭契約の終了した阿部忍、高田喜智、山本安夫、古賀俊彦、楠田行雄を除くその余の原告等については解雇を相当とする理由があつたものであるから本件解雇については毫も解雇権の濫用はない。
即ち被告が原告山崎次敏他八名を解雇した理由並びに経過を述べれば、
(一) 被告会社黒崎工場はコークス、染料、薬品、肥料等を主要製品とする綜合化学工場であつて、約七十万坪に及ぶ広大な敷地内には巨大且つ精密な高温高圧装置を各所に有し、それらは互いに密接不可分な有機的関連を以て日夜運転され、更にその中では発火性、引火性、爆発性又は有毒性の危険物質を多種多量に取扱つている。従つて、これが運転に当つては、従業員各自の良心的な作業意欲と周到なる注意力を必要とし、一見些細な原因によつて往々にして重大な結果を招来しかねない危険性を存するのである。かかる装置上の特殊事情とこれに伴う管理上の困難性を有する右工場の秩序と安全を維持するためには、結局、従業員各自の自覚乃至は責任感と就業規則を自主的に遵守する精神に俟つ外はない。
(二) 然るに終戦以来、従業員中原告等を含む一部の共産党員並びにその同調者は、この自覚と責任感を欠き、日本共産党の指示方針に従い、共産党細胞の組織的な指導の下に、工場の秩序を紊し、職場不安と会社職制に対する不信反感の念を醸成、他の従業員の生産意欲を低下させて、企業の運営に多大の支障と脅威とを与えた。
即ち、被告会社黒崎工場においては、昭和二十一年暮頃、日本共産党黒崎化成細胞が結成され、その後青年共産同盟、日本民主青年同盟等の日共青年組織をはじめ、文学サークル、レコード・コンサート、コーラス等の日共の文化サークル組織、更にはスルメ会等の組織の結成を見、化成細胞を中心とするこれ等の組織の下で党員、同調者等は職場内外において活発な活動を展開し、(イ)職場においては絶えず上司と事を構え、他を煽動して職制反抗、吊し上げその他物よこせ等の職場斗争を繰り返して職場秩序を攪乱し、(ロ)労使間の交渉に際しては、虚偽又は歪曲誇大な宣伝を行つて、殊更労使の離間を策し、或は組合の決定に反して違法過激な斗争を煽動、激発し、(ハ)更に職場内外において日常不断にアジビラを配布又は貼布して、職場斗争を煽動し、又会社の施設運営に関し明らかにこれを中傷する虚偽又は歪曲誇大な宣伝を執拗に行い、会社職制に対する不信反感憎悪の念を煽り、従業員の生産意欲の低下を策し、(ニ)又日常の服務に当つては、就業時間中屡々無断で職場を離れ、アカハタ、アジビラその他党の刊行物を配布、販売し、或は他の従業員に入党を勧誘してまわり、或は党員会の連絡謀議に当る等、専ら党活動に熱中して常々職場の規律を紊し、正常な労務の提供を怠り、然も、一部党員は「働けば働く程資本家を肥らす」とか「真面目に働くのは、資本家の手先」等と他の従業員をアジつて作業能力を低下させていたのである。(ホ)その上これら党員同調者の中には、昭和二十四年暮頃より昭和二十五年にかけ、工場施設の破壊をさえ屡々口にする者が現われ、企業の存立をも脅やかすに至つた。殊に昭和二十五年夏には、化成細胞が同年七月頃社外での党の会合において、工場施設の爆破について論議し、細胞員の一部がその具体策について検討していたとの情報を得、被告会社はかねての一部党員等の言等と考え併せ、深刻な恐怖を覚えたのである。このような活動は、単に個々の従業員の秩序紊乱行為たるに止らず、他の一般従業員に及ぼす悪影響は測り知れないものがあり、会社はこれが対策に積年苦慮して来たのであるが、その活動は逐年活溌化し、特に昭和二十四年より同二十五年に入つて日を追つて過激の度を加えた。
而して化成細胞を中心とする前記組織の下で、共産党員又は同調者のなした企業破壊的言動の中、原告等は左の如き具体的言動のあつたものである。
1、原告山崎次敏、山本国彦、清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、小柳利治、山本正昭は上司に対し、特に顕著な反抗又は吊し上げ等を行い、
2、原告上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治は右の外、職場において、特に甚だしく、日常屡々上司の指示命令又は注意に反抗し、
3、原告山崎次敏、山本国彦、坂井弘、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は特に甚だしく職場において、日頃機会ある毎に上司を中傷誹謗して、職場に反職制の空気を醸成せんとし、
4、原告山崎次敏、山本国彦、清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、小柳利治、山本正昭は職場において、日常物よこせ等の職場斗争を反覆、煽動、実施して絶えず職制を圧迫し、
5、原告山崎次敏、清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は昭和二十四年八、九月労働協約改訂反対斗争をし、
6、原告清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は昭和二十四年暮、越冬資金交渉時、組合の決定に反し職場斗争を煽動、実施し、
7、原告山崎次敏、清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は昭和二十五年七、八月、臨時手当交渉時、組合の決定を経ずして違法な抗議文斗争を煽動し、又組合の決定に反し、協約の一方的破棄を主張、煽動し、
8、原告清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は右臨時手当交渉の際、山崎次敏が組合において不信任されたことに関し、これが会社と一部組合幹部の策謀であるかの如く宣伝し、会社を中傷し、
9、原告山本国彦、坂井弘は昭和二十四年三、四月労働法規改悪反対斗争を煽動し、会社に関し虚偽歪曲の宣伝をし、
10、原告清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治は昭和二十四年十、十一月、復興綱領で職場斗争を煽動激発し、又、会社の運営に関し虚偽歪曲の宣伝をし、
11、原告清原正人、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治は右復興綱領斗争の一環として、昭和二十四年十月、無機部硫酸課の補修婦整理反対職場斗争を行い、
12、原告清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は昭和二十五年二月から春にかけ、会社の方針、運営に関し虚偽、又は牽強附会の宣伝をなして、黒崎工場の軍需工場化反対、生産反対を煽動し、
13、原告山崎次敏、坂井弘は昭和二十五年五月以降、速報プレスにより歪曲誇大な宣伝をなして会社を中傷誹謗し、又、同プレスの配布について会社の警告にも拘らず屡々協約違反をおかし、
14、原告山崎次敏、山本国彦、清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭はアカハタ、ビラ、パンフレツト、その他の党関係印刷物を、始終無断で職場に持込み、これを就業時間中、配布販売し、また時間中自らこれを閲覧し、他にも閲読又は講読をすすめ、
15、原告清原正人、坂井弘、松井正雄、小柳利治は就業時間中、屡々細胞ビラの原稿を書いたり、それを印刷したりし、
16、原告山本国彦、清原正人、坂井弘、松井正雄、山本正昭は就業時間中、屡々党や青共、民青等への加入を勧誘したり、党の資金カンパ、青共バツヂの販売、党の平和署名運動等を行つて、党勢拡大を図り、
17、原告坂井弘、山本正昭は就業時間中、共産党出身の衆参議員立候補者の選挙運動をし、
18、原告清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、小柳利治は就業時間中、職場でスクラムを組んで革命歌、労働歌を高唱して、党のデモンストレーシヨンを行い、
19、原告山崎次敏、山本国彦、清原正人、坂井弘、上原逸夫、松井正雄、杉村幸保、小柳利治、山本正昭は就業時間中、屡々職場を離脱し、他の党員等と会合し、連絡打合せをし、
20、原告山崎次敏、坂井弘、上原逸夫、小柳利治、山本正昭は始終、他の従業員にサボをアジリ、作業能率の低下を策し、
21、原告山崎次敏、松井正雄の両名は屡々会社施設の破壊を口にしていたが、右の中、原告山崎次敏は、昭和二十三年五月の協約交渉時、保安保全要員は不要との暴言をなし、会社施設を破壊してもよい、炉を破壊する権利があると暴言し、昭和二十四年十月、「共産党員は全部コークス炉に集めて、コークス炉より、革命のノロシを上げる」と公言し、又昭和二十四年暮、越冬資金交渉の席上、「我々は戦争中(ないしは終戦当時)コークス炉を守り続けて来た。然るが故にコークス炉を破壊する権利がある」と公言し、更にこの交渉中、組合側委員の宿舎である鎌倉臨海寮においてストライキの話が出たとき、原告坂井弘に対し、「コークス炉に無人電車を暴走させる」と放言し、原告松井正雄は、昭和二十五年七月頃から、職場で「化成無機部の重要地点は、瓦斯係のウインクラー、合成係のコンプレツサー、亜硫酸係のロータリーキルンだ。こんな箇所を破壊すれば無機部は完全に機能を停止してしまうから、資本家をやつつけるのは簡単だ」と再三放言し、
22、原告松井正雄は、山本正昭については昭和二十五年夏、化成細胞員として工場爆破計画を検討していたとの情報があり、
23、以上の外、業務阻害の言動として、原告山崎次敏は昭和二十四年十月、スルメ会を結成し、組胞と共斗をすすめ、昭和二十五年三月、連合会代議員選挙の際、「ストをやりたい者は俺に投票せよ」とアジつて廻り、同年五月頃より無協約主義、協約反古論を煽動し、同年九月より本件整理直前まで過激な反税斗争を煽動し、原告山本国彦は昭和二十四年七月より長期欠勤し、自宅療養中、療養に専念すべきところ、却つてこれを利用して党活動に熱中し、又職場においては絶えず階級斗争をアジり、口ぐせのようにスト、企業破壊を煽動し、原告坂井弘は昭和二十四年春より民青の指導者として民青の指導育成に当り、原告上原逸夫は就業時間中、私用電話が極めて多く、課長から再三注意を受け、原告杉村幸保は昭和二十四年四月、小倉市勝山公園における北九州青年婦人総蹶起大会で大衆課税反対の演説を行い、及び昭和二十四年五月、「歯車」五月号に日共の外郭団体たる九州青年会議結成の記事をのせ、「地方権力奪取の斗争」等その斗争方針を挙げ加盟を呼びかけ、昭和二十五年三月二日、総務部、経理部、施設部、無機部等の各部に就業時間中無断で婦人部集会ビラを配布し、同年八月、会社が極度の資金難のため組合に賃金の分割払を申入れた際、この申入れを「会社は金はあるが利子をかせぐためだ」と殊更虚偽の宣伝をして会社に対する反感を煽り、原告山本正昭は昭和二十四年春より民青の会合の中心人物として反会社斗争を打合せ、同二十五年五月頃より民青指導者として更にその指導育成に当り、昭和二十五年二月、コークス部の配置転換の際、ビラを配つて配置転換ないしは人員の減少等とは全く関係のない梅野健児の事故を配置転換に基因する事故であつたかのように虚偽の宣伝をして、配転反対を煽動し、又、就業時間中他職場まで出向いて同様の煽動をする等のことがあつたものである。
被告会社は、慎重な調査の上、前記原告等に対する右のような種々の企業阻害行為を確認し、これら間違いない諸事実を綜合的に判断して原告等の解雇を決定したものであつて解雇権濫用の原告の主張は当らない。
ところで会社は原告等の具体的言動については右の如く充分な調査をし資料も整備していたが、前記組合代表者との協議の公開の席上ではその発表を避けたのである。その理由の一つは、個人の秘密、名誉にも関係し、協約第七十五条の人事の秘密に関する規定の趣旨等から公表を憚られたこと、又一つには原告等の言動は相当期間に亘る組織的、計画的行為であり、且つ極めて錯雑した背景、事実関係を持ち、従つて個々の言動に対する判断、評価も部外者には必ずしも容易ではない。このような言動を公表し、逐一之を論議の対象とすることは徒らに協議を混乱させ、協議期間を遷延する結果ともなるのみならず、本件被整理者等の性格、日頃の破壊的言動からして、かくして荏苒日を過すときは、何時、如何なる不祥事件が発生するかも知れないと極めて憂慮したからである。従つて公開の席上での発表は避けたが、当時の組合責任者副組合長峰真澄及び当時の組合側交渉委員中間康夫の如く、真面目に資料の提示を求めた者には必要な資料を示しているのである。又本件の場合、異例の措置として組合側交渉委員に対し、就業時間中、被整理者の言動につき調査する機会を与えている。このように被告会社は、資料の取扱いに慎重を期する一方、組合の要望には努めて機宣の措置を講じてこれに応えていたのである。さればこそ組合も、会社が組合の納得するに足る資料を具備していることを確め得たので、会社の資料の取扱方法について暗々裡に了承していた次第である。以上のような方法をとつたことは、客観的に見て何等妥当性を欠くものではなく、会社側の処置としてはやむを得ないものというべく、これを以て信義則違反、協議約款違反なりと非難するのは当らない。
原告等予備的主張八、九、十の主張事実は全部否認する。
と述べ、
抗弁として、
一、原告等中自ら退職願を提出し、被告会社との間の雇傭関係を合意により解約せしめた五名を除くその余の原告、即ち、原告山崎次敏、同山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同杉村幸保、同小柳利治、同山本正昭の九名は供託中の退職金、解雇予告手当受領のため、被告会社より供託書を受領する際、「解雇に異議ない」旨の念証を差入れ、異議権の抛棄、即ち原告等が解雇に関して被告会社に主張し得べき法律上の一切の請求権を抛棄する旨の意思表示をしているから、右九名の原告等については本訴請求による保護救済を求める利益はないものと言わねばならない。
即ち、原告山崎次敏の代理人訴外相川妙子は、昭和二十五年十二月六日、原告山本国彦の代理人訴外田中忍は右同日、原告清原正人は同年十二月五日、原告坂井弘の代理人訴外坂井秀子は昭和二十六年九月二十九日、原告上原逸夫の代理人訴外佐々木哲夫は昭和二十五年十二月二十二日、原告松井正雄の代理人訴外田中忍は同年十二月十二日、原告杉村幸保は同年十月三十一日、原告小柳利治の代理人訴外小柳勤は同年十二月二十五日、原告山本正昭の代理人訴外松井保典は昭和二十六年一月十九日それぞれ前記の通り被告会社に対し本件解雇に関して被告に対し主張し得べき法律上の一切の請求権を抛棄する旨意思表示をしているのであるから、右九名の原告等の本訴請求は失当である。
仮りに右原告等の各代理人について異議権抛棄に対する正当な代理権がなかつたとしても被告会社は左の理由により民法第百十条の表見代理の主張をする。即ち、右原告等九名の中、本人自ら被告会社に対し異議権を抛棄した二名の原告を除くその余の原告等の各代理人においては少くとも被告会社において本件解雇者に支給すべく供託中の退職金及び解雇予告手当受領のための代理権を有していたものであるところ、右供託書の交付に際して同時に各代理人に差入れさせた前記解雇に関する異議権抛棄の念証については、当時この関係事務の担当者であつた整員係係員辻野坦において、各代理人に夫々右の念証を示して、その代理人にその記載内容を十分理解せしめ、一旦帰つて本人にこの点を確めて来ることを求め、よつて各代理人は右要請に応じて一旦帰り、改めて来社した際、本人の実印を押捺した委任状に印鑑証明書まで添付して提出し、前記異議権抛棄について本人に異存のない旨明言して、供託書受領証及び念証に署名捺印したものであるから、各代理人に解雇に関する異議権抛棄の意思表示をするについても代理権があるものと信ずべき正当な理由があつたものである。
右表見代理の主張が理由ないとしても、各本人が会社は退職者でなければ退職金を支払わないものであることを知りながら、代理人をして何等異議を留めさせずに受領させた場合は、解雇に異議を述べない旨の黙示の合意が成立するに至つたものである。
二、次に被告会社の退職の勧誘に応じ、十月十三日正午までに希望退職を申し出で、合意により雇傭契約を終了した原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名は十月十三日午前中、夫々本人より退職願を提出し、被告会社がこれを受理したが、その際、被告会社に対し「記載金額を退職金及び特別餞別金として異議なく受領する」旨の念証を差入れ、然る後退職金及び特別銭別金を受領し、その余の原告九名においては前記の通りに退職金及び解雇予告手当を受領し、解雇に関する異議権抛棄の書面を差入れて、被告会社との雇傭契約を円満に終了せしめ、それに伴う一切の法律関係も最終的に結末を見ている。且つ又、その後、本訴提起に至るまで原告等から何等の異議の申立もなかつたことにより、被告会社としては、本件につき原告等は争う意思が真実全くないと確信していたものである。かくて本件整理はすべて円満に落着したので、被告会社は事後、従業員の採用、配置等新たな雇傭体制を形成し、その他生産体制一般につき新たな秩序を確立して今日に至つている。然るに原告等は昭和三十一年六月、突如本訴を提起して、先に表示した自己の意思を度外視して、本件整理後流動性の激しい労働情勢下にあつて数年に亘つて確立された諸種の秩序を一挙に覆さんとしているのである。かかる権利行使の方法は余りにも恣意的であつて、社会通念上到底首肯し得ないのみならず、法律関係安定の理念にも反するものである。よつて原告等の権利の行使は甚しく信義誠実の原則に反するので、このような本訴請求は、権利の濫用として最早法の保護を受けるに値しないものと言うべきである。
三、占領下において連合国最高司令官から内閣総理大臣宛に発せられた昭和二十五年七月十八日附書簡は日本政府に対し「アカハタ」及びその後継紙並にその同類紙の発行を無期限に停止する措置を命じた指令たるに止らず、更に報道機関から共産党員又はその支持者を排除すべきことを要請する指示としての性質をもち、然も右指令は超憲法的効力をもつものであるところ、昭和三十五年四月十八日の最高裁判所大法廷決定(昭和二九年(ク)第二二三号)によれば、右書簡は単に報道機関のみにとどまらず、わが国重要産業からも共産党員又はその支持者を排除すべきことを要請する指示を含むものである旨判示されると共に、民事上の法律行為の効力は行為時の法令に照らし判定すべきものであつて、右指示が平和条約の発効と共に効力を失つたとしてもそれに基く共産党員又はその支持者の解雇が何ら影響を被るものではない旨判示されている。翻つて本件を観ると、原告等は自ら共産党員又はその同調者であつたことを認めている事案であり、現実に職場内外において破壊的煽動的言動をしたものであることは前示被告の主張の通りであるから右大法廷決定の趣旨に照らしても、原告等の本訴請求は失当である。
と述べ、原告等の供託書(退職金及び解雇予告手当)受領に関する自白の取消については異議があると述べ、
原告等の再抗弁に対し、(一)、(二)、(三)、(五)の主張事実は否認する。(四)の主張事実については、相手方が未成年者であるからといつて、それに対する能力者の意思表示に瑕疵あるものとは言い得ないことはいうまでもないから原告坂井弘には取消権はない。のみならず本件の場合は、供託金受領又はそれに関連する解雇に対する異議権抛棄に関する単なる代理権授与の行為であつて、受任者坂井秀子は単に権利を取得するのみで何らの不利益も蒙らないのであるから、受任者坂井秀子と雖も取消権はなく、従つて原告坂井弘には民法第十九条の催告権すらないものである、と述べた。(立証省略)
理由
一、被告が本店を東京都内に置き、染料、薬品、肥料等の各種化学工業品の製造加工並に販売及びこれ等に附帯する事業を営む株式会社で、八幡市黒崎に工場を有する企業体であること、原告等はいずれも被告会社の前身たる日本化成工業株式会社(以下同会社をも合せて被告会社と称する)黒崎工場の従業員であつたことは当事者間に争がない。
二、そこで原告等はその請求原因第二、三項において、同人等がいずれも昭和二十五年十月十三日被告会社より解雇されたが、右解雇は昭和二十五年五月三日以降同年七月十八日に至るまでの連合国最高司令官の声明及び吉田内閣総理大臣あて一連の書簡の趣旨と、当時の客観的情勢に便乗して共産党員又はその同調者であることを理由として解雇したものであるから、右解雇は憲法第十四条第一項、労働基準法第三条に違反し、従つて民法第九十条の公序良俗違反行為として無効であると主張する。
よつて考えるに、連合国最高司令官の昭和二十五年五月三日の声明、及び同司令官の、昭和二十五年六月六日付、同月二十六日付、同年七月十八日内閣総理大臣あて各書簡の趣旨は、当時の連合国最高司令官において国際及び国内情勢のもとにおける占領政策を示し、この占領政策を達成するために必要な措置として、日本政府に対し「アカハタ」及びその後継紙並にその同類紙の発行を無期限に停止する措置をとることを命じたるに止らず、さらに公共的報道機関その他の重要産業の経営者に対し、その企業のうちから共産主義者またはその支持者を排斥すべきことをも要請した指示であると解すべきものである。蓋しこのことは右挙示の屡次の声明及び書簡の趣旨に徴して明かであるばかりでなく、そのように解すべきである旨の指示が当時最高裁判所に対してなされていたものであり(最高裁判所昭和二九年(ク)第二二三号、昭和三十五年四月十八日大法廷決定参照)、右のような解釈指示は、当時においてわが国の国家機関及び国民に対し、最終的権威をもつていたのである(昭和二十年九月三日連合国最高司令官指令二号四項参照)からである。而して昭和二十年九月二日降伏文書第五項、同日連合国最高司令官指令一号十二項によると日本の国家機関及び国民が連合国最高司令官の発する一切の命令指示に誠実且つ迅速に服従する義務を有することを要求されていたのであるから日本の法令は右の指示に牴触する限りにおいてその適用を排除されることはいうまでもないところである(最高裁判所昭和二六年(ク)第一一四号、同二十七年四月二日大法廷決定、前掲昭和三十五年四月十八日大法廷決定参照)。すると被告会社が連合国最高司令官の指示にのつとつてなしたと主張する原告等主張の本件解雇が法律上の効力を有することは明らかであり、右が平和条約発効後の今日においても尚その効力を左右されるものではないことは前示昭和三十五年四月十八日の最高裁判所決定の説示する通りである。よつて原告等主張の理由による原告等に対する被告会社の解雇が、憲法等国内法令に関ることなく有効である以上、右請求原因第二、三項の主張は主張自体理由がない。
三、次に原告等は請求原因第四項において原告等十四名の本件解雇はいわゆるレツド・パージに名を藉りて組合活動に最も熱心な者を排除し、組合を弱体化する目的でなされた解雇で不当労働行為であると主張するので判断する。この点被告は原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄以外の原告等については解雇の事実自体は認めるも、右五名の原告等についてはこれを争い、右は雇傭契約の合意解約によるものであると述べているので考えるに、一般に雇傭契約にあつては、契約当事者のいずれか一方の解約の意思表示があることによつて同契約は将来に向つて解約されるものであるが、尚当事者間の合意による解約も契約自由の原則よりして何等排斥されるものではない。そこで使用者が従業員に対し何日までに退職願を提出すれば何日付を以て雇傭契約を終了させる旨の期限付合意解約の申入を通知し、従業員が右申入に応じて退職願を提出すると、右は申入に対する承諾として、その申入の通知内容に従つてその期限に雇傭契約は合意により解約されたものとなる。
ところで原告等は右五名の原告等についても被告より解雇されたものであると主張するも、右主張事実を認めしめるに足る証拠はなく(但し後に挙示する証拠を除く)、却つて、成立に争のない甲第三号証、乙第六号証、同第九号証の一の一、同号証の二の一乃至三、同号証の三の一乃至三、同号証の四の一乃至三、同号証の五の一乃至三、同号証の六の一乃至四、証人香川重雄、同辻野坦(第一回)、同林規、同石川博司の各証言並に原告阿部忍、同高田喜智、同古賀俊彦、同楠田行雄の各本人尋問の結果によると、被告会社は後記説示の如き理由により被告会社より二十七名の従業員を企業より整理しようと決意したが、その整理をなるべく円満に解決するため、予め整理対象者に対し自発的な退職を勧誘することとし、これに応じない者はやむを得ず解雇することとした。そこでその所属労働組合に申入れるに際してもこの旨を明示し、昭和二十五年十月十日同組合の同意を得た上、同月十一日、整理対象者全員に対し同文の通告書を以て十月十三日正午までに退職願を提出し、各自が円満に希望退職するよう勧告し、同時に右期限までに退職願を提出しない場合は解雇として、同通告書を以て解雇通告書とする旨通告した。右により被告会社は同会社の申入に応じて退職願を提出して雇傭契約を合意解約するか又は同会社の一方的解雇を受けるかを原告等の意思に任せた。そこで原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名は十月十三日午前中、夫々本人自身で被告会社に赴き、各自退職願を提出し、被告会社整員係長石川博司、整員係係員香川重雄を通じて被告会社にこれを受理せしめ、然る後退職金及び特別餞別金を同会社より受領したことが認められ、右認定に反する甲第四号証の記載内容の一部、原告阿部忍、同高田喜智、同古賀俊彦、同楠田行雄の各本人尋問の結果の一部は右証拠と対比して採用し難い。而して右認定事実によると右退職願を提出した原告等五名は昭和二十五年十月十三日被告会社との間に合意により同原告等の雇傭契約を解約したものであつて、原告等主張の如く被告会社より解雇されたものではないから、右五名に関する限り原告等請求原因第四項の主張はその余の争点に関する判断を俟つまでもなく理由がない。
そこで、右五名を除くその余の原告等、即ち原告山崎次敏、同山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫(当時松元逸夫と称していた)、同松井正雄、同杉村幸保、同小柳利治、同山本正昭に関する不当労働行為の主張につき考えるに、右主張に対しては、被告は右九名の原告等は本件解雇については一切の法律上の異議権を抛棄していたものであるから、この点において原告等の本訴請求は棄却さるべきである旨主張するも、右に対する判断は暫く措き、被告会社において右原告等九名をいわゆるレツド・パージに名を藉り、組合活動に最も熱心な者を排除し、組合を弱体化する目的を以て解雇したものであるか否かにつき調べてみる。
被告会社が右九名の原告を昭和二十五年十月十三日限り解雇したこと、及び原告山崎次敏が当時被告会社黒崎工場労働組合長、原告山本国彦が同組合の元中央委員、原告坂井弘が同じく元執行委員、青年部長、原告上原逸夫が同じく当時区会委員、原告松井正雄が同じく当時中央委員、原告杉村幸保が同じく元青年部長、当時教宣副部長、原告小柳利治が同じく元青年部中央幹事、原告山本正昭が同じく当時中央委員であつたことは当事者間に争がなく、その他原告清原正人が同じく元青年部支部(無機支部)長であり、原告坂井弘が同じく元中央委員でもあつたことも原告清原正人、同坂井弘の各本人尋問の結果によつて各々認められる。
そこで進んで原告等に対する解雇がいずれも不当労働行為に当るとの原告等主張事実につき調べるに、原告高田喜智の本人尋問の結果により成立を認め得る甲第四号証、及び証人片桐一夫、同野田末雄の各証言、原告山崎次敏、同楠田行雄の各本人尋問の結果中、右原告等主張に副う如き記載内容並に供述があるが、右はいずれも後記証拠と対比して遽かに採用し難く、又成立に争のない甲第十八号証、同第二十号証の記載内容の各一部、原告山崎次敏の本人尋問の結果により成立を認め得る甲第三十一、同第三十二、同第五十一、同第六十九、同第七十五号各証、成立に争のない甲第三十二号証乃至同第五十号証(但し第四十八号証は欠番)、甲第五十二号証乃至同第六十八号証、同第七十号証乃至同第七十四号証、原告松井正雄、同杉村幸保の各本人尋問の結果を以てしても未だ右事実を認めしむるに足らず、他に右主張事実を認めしめるに足る証拠はない。却つて、成立に争のない乙第六、七号証、同第十一号証の一の一、二、同号証の二乃至四、同号証の五の一、二、同号証の六、同第十七号証の一の一乃至六、同号証の二の一乃至四、同第二十号証の二の一乃至三、同第二十二号証の二の一、二、同号証の二の四乃至十一、同第二十四号証の二の一乃至六、同第二十七号証の一の五、同号証の二の一、二、四、五、七、同第二十八号証の一の一乃至五、七、九、同号証の二の一乃至三、五乃至十六、証人林規の証言により成立を認め得る乙第十五号証の一乃至十一、同第十八号証の一乃至三、同第十九号証の一の一乃至四、同第二十号証の一の一乃至七、同第二十一号証の三、同号証の四の一、同第二十二号証の一の一乃至三、同号証の三の一乃至三、同第二十四号証の一の一乃至七、同号証の三の一乃至七、同号証の四の一乃至六、同第二十七号証の二の三、同号証の二の六、同号証の二の八、九、同第二十八号証の二の四、同号証の二の十七、証人石川博司の証言により成立を認め得る乙第三十六号証の一乃至九、及び証人峰真澄、同小役丸達雄、同香川重雄、同辻野坦(第一回)、同林規、同中間康夫、同石川博司の各証言、同佐々木哲夫(第一回)の証言の一部、原告本人山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同杉村幸保の各本人尋問の結果の各一部によれば、被告会社が原告山崎次敏、同山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同杉村幸保、同小柳利治、同山本正昭を各解雇したのは左の通りの理由によるものであることが認められる。即ち、
(一) 被告会社黒崎工場は硫安、コークス、染料、薬品等を主要製品とする綜合化学工場であつて、約七十万坪に及ぶ工場敷地内には高度に近代化された設備装置を持ち、それらは互に密接不可分な有機的関連の下に日夜間断なく運転されているが、その中では発火性、引火性、爆発性又は有毒性の危険物質を多種多量に取扱つており、これが運転管理に当つては特段の苦心を必要とするものであり、同工場の秩序と安全の維持に万全を期するためには従業員各自の自覚乃至は責任感と就業規則を自主的に遵守する精神に期待する外はない。
(二) 然るに、被告会社黒崎工場においては昭和二十一年暮頃、日本共産党黒崎化成細胞が結成され、その後青年共産同盟、日本民主青年同盟等の日共青年組織をはじめ、文学サークル、レコードコンサート、コーラス等の日共の文化サークル組織の結成を見、化成細胞を中心とするこれらの組織の下で原告等を含む党員並にその同調者等は右自覚と責任感を欠き、日共の指示方針に従い、職場において絶えず上司と事を構え、他の従業員を煽動して職制反抗、吊し上げ等職場秩序の攪乱を企て、労使間の交渉に際しては、虚偽又は歪曲誇大な宣伝を行つて、殊更労使の離間を策し、或は組合の決定に反して違法過激な斗争を煽動し、更に職場内外においてアジビラを配布又は貼布して職場斗争を煽動し、又会社の施策運営に関し明らかにこれを中傷する虚偽又は歪曲誇大な宣伝を行い、会社職制に対する不信反感の念を煽り、従業員の生産意欲の低下を策し、又日常の服務に当つては、就業時間中、屡々無断で職場を離脱し、アカハタ、アジビラその他党の刊行物を配布、販売し、或は他の従業員に入党を勧誘してまわつて正常な労務の提供を怠り、然も一部党員は「働けば働く程資本家を肥らす」とか「真面目に働くものは資本家の手先」等と他の従業員をアジつて作業能力の低下を策し、更にこれらの党員又は同調者のうちには、昭和二十四年暮より昭和二十五年にかけ工場施設の破壊さえ屡々口にする者が現われ、当時の共産党の暴力騒擾事件と考え合せて被告会社をして深刻な不安を感ぜしめたものである。而して右の如き活動は単に個々の従業員の秩序紊乱行為たるに止らず他の一般従業員に及ぼす悪影響は測り知れないものがあり、被告会社はこれが対策に積年苦慮して来たが、その活動は逐年活発化し、特に昭和二十四年より同昭和二十五年に入つて日を追つて過激となつて来た。
(三) 被告会社は右のような集団的組織的な企業阻害の活動或は工場施設破壊の企図に対しては応急的姑息な方法では彼等の組織的活動に対処することは到底不可能であつたので、遂に昭和二十五年八月初旬、工場の秩序と安全を確保し、企業を防衛するにはこれら破壊的・煽動的行動のある者を企業より排除する以外に方法がないとの結論に達した。
(四) 一方、被告会社における前述のような情勢は、当時我国の各種の産業の全般に亘つていたものであり、その基因をなした日共の一連の行動については従来右方面からその破壊性、危険性が指摘され、国民の認識も漸次高まりつゝあつたが、昭和二十五年に入つて日共の暴力主義的色彩は益々濃厚となり、先に第二項において述べた如く同年五月三日以降同年七月十八日に至る間一連の連合国最高司令官の声明並に書簡が発表されて、日共の性格、行動の破壊性、危険性が指摘されると共に、重要産業から共産主義者またはその支持者を排除すべきことが要請されたのである。そこで被告会社としては右要請にも一面応えるものとしてその整理を準備し、本件整理の実施に踏み切つた。
(五) 而して被告会社は労務管理の過程において過去数ケ年に亘り集積されていた各種の資料に基き、企業阻害の事実関係を整理検討した上、本件原告山崎次敏、同山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄、同杉村幸保、同小柳利治、同山本正昭においては本判決事実摘示中原告等主張事実第七項に対する被告の答弁事実中1から23に記載の如き各具体的企業破壊的・煽動的言動のある者として解雇したものであつて、原告等九名が特に組合活動に最も熱心であつたがためにこれを解雇することにしたり、又は組合を弱体化することを目的として右原告等九名を解雇したものではなかつたのであり、又原告等の前示各行為は組合活動とは全く関係のない党の組織活動であつたのである。
以上認定に反する証人佐々木哲夫(第一回)の証言の一部、同萩原茂示、同鴨川博、同片桐一夫の各証言、原告山本国彦、同清原正人、同坂井弘、同上原逸夫、同松井正雄の各本人尋問の結果の各一部は前掲各証拠と対比して採用し難いところである。
よつて原告等全員に対する解雇が不当労働行為として無効であるとする原告等請求原因第四項の主張も理由がない。
四、次に原告等はその請求原因第五、六項においても同人等はいずれも共産党員またはその同調者であるが故に解雇されたものであるが、かかる場合の解雇であつても労働協約による手続を遵守して解雇すべきであるが、本件解雇はその手続を経ていないものであるから無効であり、又中央委員会の決定並に右に基く組合交渉委員の協議は昭和二十五年十月十四日の組合大会において否決されたからその協議も遡及して無効となつたので、この点からしても本件解雇は無効である旨主張するが、前示第二項において説示した如く、連合国最高司令官の前示書簡の趣旨に従い一般重要産業部門から共産主義者またはその支持者を排斥することは、当時は勿論平和条約発効後の今日においても憲法以下の国内諸法令に関ることなく有効なものである以上、本件解雇の手続において仮令所論の如き労働協約違反の事実があつたとしても、右は未だ、いわゆるレツド・パージによる解雇の場合においてはその解雇の効力を左右せしめるに足らないから、原告等の右主張もいずれも理由がない。
五、次に原告等は請求原因第七項において、原告等に対する本件解雇の理由は「非協力者」ないしは「共産主義者及びその同調者として企業破壊のおそれがある」とのみ説明されたものであるが、かかる抽象的理由による解雇は解雇権の濫用であるから民法の諸規定に照らし無効である旨主張するが、右もまた前示第二項において述べた如く、当時の連合国最高司令官の一連の声明及び各書簡の趣旨に従つて一般重要産業部門より共産主義者またはその支持者を追放することは当時は勿論今日においても国内諸法令に関ることなく有効であるところ、原告等がいずれも共産主義者又はその支持者であるとの事実及び右の事実を理由として同人等が解雇されたことは本件において原告等自ら主張しているところであり、かかる場合の解雇はそれ以上解雇につき具体的理由を示す必要はなく、又それ以上労働協約等による解雇基準に該当する具体的行為の存在の有無に関りなく有効なものであるから、この点に関する原告等の主張も理由がない。
六、次に原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名に関する原告等の予備的主張第八項並びに同第十項について判断するに、原告等は右原告五名の雇傭契約の合意解約は、レツド・パージにより馘首されんとしている原告等の窮迫状態又は労働組合から弧立し経済的に窮迫しつつある従業員の窮状につけ込んでなされた法律行為であるから民法第九十条により、公序良俗違反の行為として無効であると主張するのであるが、一体相手の窮迫状態を利用した法律行為が公序良俗違反として無効とされるためには、かかる利用行為によつて利用者が不当の利を博したものであることを要し、唯単に相手の窮迫状態に乗じてなされたものであるというだけでは、その行為は未だ同法にいう公序良俗違反の無効行為ということを得ないものである。ところで原告等は本件の場合において被告会社がいかなる不当な利益を博したと主張するのか明確でないが、惟うに原告等はいわゆるレツド・パージによる解雇が無効であるとの主張に立脚して、かかる無効な解雇、即ち換言すれば原告等が未だ被告会社の従業員たる地位を有していることと対比して、合意解約による雇傭契約の終了が被告会社に不当な利益を与えているものと主張するものと考え得られるが、原告等主張にかかるいわゆるレツド・パージによる解雇が有効であることは繰返えし述べて来た通りであるから、右によらずして合意解約によつて雇傭契約を終了せしめたからといつて何等被告会社において不当な利益を得たことにならないことはいうまでもなく、却つてこの点原告等自ら主張している如く、合意解約によつて雇傭関係を終了せしめるときは、そうでない解雇の場合と対比して特別餞別金名義で若干多くの金員の贈与さえ会社から受けているものである。更にまた雇傭契約の合意解約それ自体が雇傭契約の存続と対比して使用者側に「不当な」利益を与えるということは他に何らかの特別事情の存在しない限り考え得られないところであり、かかる特別事情は勿論のこと、被告会社において如何なる不当な利益を博したかについて何等原告等においてその主張立証の見るものがない以上、果して原告等五名が当時原告等主張の如き窮迫状態に陥入つていたか否かについて判断するまでもなく、この点において原告等の右主張も採用し難いところである。
七、最後に原告阿部忍、同高田喜智、同山本安夫、同古賀俊彦、同楠田行雄の五名は予備的主張第九項において本件合意解約は民法第九十三条但書により無効であると主張するので考えるに、まず原告山本安夫については、同原告が被告会社からの本件期限付雇傭契約の合意解約申入に対し、昭和二十五年十月十三日なした承諾の意思表示が同原告の真意に出たものではなかつたとの事実を認めしめるに足る証拠はなく、却つて、成立に争のない乙第三十七号証の一、二の各一、二、及び証人石川博司の証言によると、同原告は被告会社から昭和二十五年十月十一日同原告宛退職願提出の勧告のあつた以前たる同年十月七日頃、葉書を以て所属長である植木係長宛自己の非行を詑びてこれを反省している旨告げ、又同月十一日頃には同じく葉書を以て柴田工場長宛希望退職の意思ある旨を述べていることが認められるところ、右事実に成立に争のない乙第九号証の四の二、三、及び右証人の証言によると、同原告は自ら真意に基づいて被告会社に対し前記申入れに対する承諾の意思表示をしたことが認められ、原告高田喜智、同楠田行雄の各本人尋問の結果を以てしても右認定を覆して原告主張事実を認めしめるに足らない。
次に原告阿部忍、同高田喜智、同古賀俊彦、同楠田行雄の四名については、仮令同人等主張の如く、同原告等の合意解約の意思表示が同人等の真意に出づるものでなかつたとしても、被告会社において右事実を知り又は知り得べかりしものであつたとの原告等の主張事実については、右主張に副う原告楠田行雄の供述を除き他にこれを認めしめるに足る証拠はなく、右原告本人尋問の結果も後記証拠と対比して容易に採用し難いところである。却つて成立に争のない乙第九号証の二、三、五、六の各一、二、三、証人石川博司、同香川重雄の各証言、証人西村喜久雄の証言の一部によると右原告等は、昭和二十五年十月五日被告会社工場長より工場内立入禁止の通告を受けてから、八幡市内黒崎町の朝鮮人連盟横の事務所に他の整理該当者と集合して今後の同人等の採るべき方針を協議したとき、解雇をそのまゝ受けておいてその効力を最後まで争うか、又は解雇に比して金銭その他の諸条件で有利な合意解約(希望退職)の道を選ぶかは結局各被整理者の自由意思に任せるとの結論に達したこと、よつて右原告四名は他の八名の希望退職者と共に解雇によるよりは希望退職による有利として合意解約の道を不本意ながらも選んで十月十三日会社宛合意解約承諾の意思表示をしたものであるが、その際何ら、被告会社代表者宛、又は右希望退職の手続を取り扱つた同会社の部課長、係長又は下部担当者に対して右承諾の意思表示が原告等の真意に出づるものではない旨の通知や表明をしなかつたのみならず、更に退職者のみに支給される特別餞別金(解雇予告手当を含む)を異議なく受領する旨記載された書面をも提出しているものであつて、右の如き退職願提出の状況から見て、右原告等の意思表示の受領代理、ないしは伝達をした黒崎工場勤労部勤労課整員係長石川博司、同人の指図により同人と共に原告等の退職願受理の事務を取扱つた香川重雄において、同原告等がその真意に基づいて合意解約の承諾をするものであると信じて疑わなかつたとの事実が認められる。
原告阿部忍、同高田喜智、同楠田行雄はその各本人尋問において、退職願を提出した十二名の被整理者は甲第四号証(声明書)とは別に「退職金は貰うが、あくまで生活資金であつて、自分達が解雇を認めたのではない」という趣旨を記載した甲第四号証類似の声明書を黒崎車庫前に貼つて一般に示した旨述べているが、同原告等の供述によるもかかるビラの掲示又は播布も早くとも退職願を提出した十月十三日の午前中であつて、しかも右はビラとして黒崎車庫前に貼示したか又は何部かを一般に播布したに止まり、被告会社宛に直接提出して右趣旨を表明したものではなかつたことが認められるところ、一方ビラという性質からしても労働組合員ないしは一般従業員に対しその支持同情を得るために訴えたものであつて、被告会社宛に原告等の真意を表明告知したものではなかつたのであり、更に進んで被告会社の代表者、或は黒崎工場長または本件整理担当関係者において右声明書なるビラの存在及びその内容を知つていたものであるとの立証については皆無であるから、右原告等本人のかかる声明書を貼示又は播布したとの供述を以てしても未だ民法第九十三条但書の原告等主張事実を認めしめるに至らない。
尚成立に争のない乙第九号証の二の二によれば、原告阿部忍の退職願中には、退職の理由として「一方的に会社の言う共産党同調者であるからと云う希望退職の勧告による」と記載されているが、右記載内容の趣旨については、同原告はその本人尋問において、自分が退職勧告を受けた理由は同人の調査の結果によると共産党の同調者であるということによるものであることが判明したが、同人は決して共産党同調者ではなかつたのであるからその趣旨を分つて貰いたい為に記載したものであると述べており、右の記載事項は右供述の如き趣旨にも読みとることはあながち不可能ではないが、一方本訴請求においては同原告は自ら共産党又は同調者であることを主張して本件整理の効力を争つている位であるから、この事実から見るも右書証に記載した事項を右原告の述べる如き趣旨で被告会社に理解せしめることは期待出来ず、むしろ右文章の趣旨は右書面を同原告から受取つた会社側の整員係担当の香川重雄が、当公廷において証人として述べている如く、これは会社の退職勧告に応じて退職願を提出するという事実をそのまゝ記載されているに過ぎないものと見るのが当時の状況からして至当であるものというべきである。若し同原告がその主張の如く同原告の合意解約の意思表示がその真意に出ていないことを被告会社に知らしめておく積りであるならば退職願を提出する際いかようにもその手段方法はあり得たのであり(その場合には被告会社としては果して退職願を受理したか否かは断言出来ない)、かかる点につき何等立証のない本件にあつては、右書証の記載内容を以てしても直ちに被告会社において右原告の解約の意思表示が真意に非ざることを知り得べかりしものであつたとの原告主張事実を認めしめるに足らない。すると原告等の民法第九十三条但書の主張もこれを採用することは出来ない。
すると原告等の本訴請求はその余の争点に対する判断を俟つまでもなくいずれも失当であるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条、第九十三条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 筒井義彦 西岡徳寿 八木下巽)